メキシコ3日目

 乾いた唇にリップクリームを塗りながら外出の支度をしている。こちらに来てからやたら体が乾燥しているような気がする。乾季ということもあるだろうが、それを考慮しても異常な乾き方だ。唇には熱を出したときのようなめくれや皺ができているほか、例年は見られないささくれが数本の指に現れ、服が擦れる度に痛みで存在を示してくる。そのくせいつも通りとまではいかないまでも、水分自体は摂っているのでどうしようもない。

 

 メキシコ入国後2日目の今日は、古代都市の遺跡テオティワカンに行く。ここは紀元前2世紀頃から6世紀頃までメキシコ中央高原で繁栄したテオティワカン文明の中心となった都市で、現在のメキシコシティから北東へ40km程の位置にある。最盛期には12.5万人以上の人口を有していたと推定される、アステカ以前のメソアメリカ最大の都市だ。
 遺跡行のバスが出ている北バスターミナルまではトロレブスという路線バスで向かう。メトロやメトロブスという選択肢もあったが、どちらも朝は混雑がひどいらしく、乗り換えも必要になるので今回はやめた。その代り地図の示すバス停までは少し距離があって、人気の無い気味の悪い路地も通ることになった。1ブロック進む度に顔を横に向け、道路を挟んだ向かい側の道を眺めるふりをして後ろを確認した。絶対に近づいてはいけないとされる区域については事前に地図に印をつけておいたのでそれほど大きな不安は無かったが、一応シティにいる間は警戒しながら歩くようにしていた。というか、絶対に近づいてはいけないとされる区域って何だ。
 さて、地図上ではバス停に到着したことになっているが、標識や時刻表など、それを示すようなものが見当たらない。周りのタクシー運転手からの誘いはすべて即断っているものの、このままではターミナルへ行けない。しかししばらく辺りをウロウロしていると、1人の女性が電柱付近に立ち止ったのが目に入ってきた。その様子でそこがバス停だと直感したので、隣に行って話しかけてみる。

- Aquí es(tá) la parada de autobús? ここがバス停ですか。
- Sí. *** pesos. そうです。***(忘れた)ペソですよ。
- *** pesos. Gracias. ***ペソですか。ありがとうございます。

 財布から運賃を取り出して待っているとバスがやってきた。どうやらバス停でアピールをしないと止まらない様子だったので、お姉さんがいてくれて助かった。バスの内装はメトロブスのように綺麗ではなかったものの、地元の人と思われる人が主に使っているようで、少しだけ彼らの生活に溶け込ませてもらったような心地がした。20分ほどでターミナルに到着した。構内には様々なバス会社が並んでいるので、一つずつ見て遺跡行のバスを扱う会社を探し、結局左端にあった窓口で目的のチケットを買うことができた。

- A Teotihuacán, uno, ida y vuelta. テオティワカン行、一枚、往復で。
- 104 pesos. 104ペソです。
- (カードを渡す)
- No. だめ。
- Solo efectivo? 現金だけ?
- Sí. そ。

 500ペソ紙幣で支払ったら30ペソくらい誤魔化された。まあいいや。5分後くらいの便だったのですぐにバスに乗り込み、左側の席に座った。動き出したバスの窓からぼうっと外を眺めていると、ようやくいつもの旅行らしくなってきたと思った。市街を抜けてからは遠景を遮る建物が無くなり、乾燥した色の山々と、その斜面を覆うように建つカラフルな家の群れが目に入ってきた。ほとんどの家は屋上がフラットで、シンプルな直方体の形状に長方形の窓枠が備え付けられている。こういう単純な図形だけで作られた構造物は見ていて楽しい。しかしその様なカラフルで可愛らしい住居群も、近くで見るとだいぶ異なる印象を与える。外壁はボロボロで、窓はついていたりついていなかったりするし、時々見える住民の服装は市街で見るものよりもぐっと貧しそうに見える。

 一時間ほどで遺跡に到着した。2点間のシャトルバスというわけではないらしく、運転手のPirámide!の声を聞き、降りる人は降りるという感じだった。辺りを見回すとすぐにピラミッドが見えたのでそちらへ歩き出した。まだ午前中のせいか、想像よりは暑くない気がする。しかしそう思ったのも束の間、上着の上からヒリヒリとした感覚が腕に生じ始めた。標高2000mを超える高地で、かつ日差しを遮るもののない平野なので、暑くはなくても日差しが強いのだ。
 最初に見えていたピラミッドは太陽のピラミッドで、西暦200年頃に建てられたものらしい。多くの観光客が上っていたが、少し階段が多すぎるので帰りに元気があったら寄ることにして一旦通り過ぎた。大通りを北へ進むともう一つのピラミッド、月のピラミッドに着いた。見たところこちらはそれほど高くなくて上りやすそうだし、眺めも位置的に良さそうだ。上まで一気に上り切ると、思った通りの良い眺めだった。街から離れているおかげで、周りに何もなくて気持ちが良い。

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 月のピラミッドの外観と上からの眺め。左奥に見えるのが太陽のピラミッド。

 他の観光客と写真を撮り合ったりして、そろそろ降りようと思っていた頃、後ろから子連れの男性に肩を叩かれ、子供達の名前の漢字を教えてほしいと頼まれた。漢検は3級までしか持っていないが、面白そうなのでやってみることにした。聞くと2人の子供の名前はそれほど漢字を当てづらいものではなかったので、あまり形が複雑でなく、綺麗な意味の字を当て、それぞれの意味を添えて紙に書いて渡した。それなりに喜んでもらえた様子だったので良かった。その別れ際にEnjoy Mexico!と言ってもらえたのだけれど、この言葉で初めて旅行者として認めてもらえたような気がしてとても嬉しい気持ちになった。

 近くにあった宮殿跡を見学し終えると満足したので、まだ来て一時間だがもう帰ることにした。暑いし。来た道をそのまま戻り、最初のバス停の近くまで来ると職員(?)が近寄ってきて、帰りのバス停まで案内してくれた。10分もすればバスが来るとのことだったので良いタイミングだった。しかしバスを待ち始めて間もなく、何となく後ろを振り返ると食堂がいくつか目に入ってきた。朝は宿でパンとバナナを食べただけだったので、小腹が空いているような気がしなくもないし、前日の晩のこともあって首都の方で飲食店を探す気もあまり無い。観光地価格が予想されるが、ここで食事を取っておくことにしよう。そう決めてバス停から離れると先ほど案内してくれた男性がまた近づいてきた。

- No! Aquí *******.(ほとんど覚えてない) 違う。バス停はここだよ。
- Quiero algo a comer. 何か食べたくて。
- Ohh... あぁ...。

 すると近くにいたもう一人の男性を案内に呼んでくれた。正直店は自分でゆっくり見て選びたかったが、親切にしてもらっているのでさっさと選んでお礼を伝えた。さて、例によってメニューとの格闘が始まった。............わからない終わり負け。店員との言語未満のやりとりを経て何とか一品適当に選び、勧められるままにスープをつけた。水も頼んでいたので要らない気もしたが、どんなものが来るのかという興味が僅かに上回った。料理が来た。一目で大体わかる。味の薄いものに味の濃いソースをかけるタイプの料理だ。

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 ロール状のトルティーヤと米(中央)、各種ソース(正面奥)とスープ(左奥)。パリパリのトルティーヤは食べづらいのでもうやめようと決めたのと、スープの中にも米が入っていて、奇妙な食べ合わせになってしまったと思った。水は美味しかった。

 昨晩に続いて微妙な食事となってしまったが、とりあえずちゃんと生きているので気にしないことにした。店の下調べをしていたわけではないのだから嫌な気分になる資格はない。それどころか、会計の際にミス(?)で100ペソほど多くお釣りをもらえたので、むしろ喜んでも良いくらいだ。

 

 北バスターミナルに帰ってきた。行きはバスだったので、帰りは地下鉄で帰ろうと思う。エントランスの目の前にある駅口から地下へ降りた。地下の空間は日本のものと比べると薄暗いものの、昼間なら特に危ない雰囲気などは感じなかった。ホームの案内については簡潔で、必ず各路線の終着駅が行き先として表示されている(途中にある大きな駅名を用いて「~方面行」とするような表記の仕方はしない)。したがって下の画像のような路線図を持っていればまず迷わないと思う。

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 メキシコシティ地下鉄路線図。もちろん駅構内にも掲示はある。これが5ペソでどこまででも乗れるのだからとても便利。

 メトロブスもそうだったが、運行頻度はかなり高いように思われた。大抵5分もすれば来る。時刻表を確認する必要が無い。一つ不満を挙げるとすれば、次の駅名のアナウンスが無いので一々外を覗いて現在地を確認する必要があるということくらいか。
 初めてのメキシコシティ地下鉄を楽しみ、宿に戻ってきた。一応予定ではこの後に中心街へ出て国立宮殿や美術館を見学することになっているが、一か月以上前の自分という実質他人の決めたことなので無視しても良い。たくさん日差しを浴びて疲れていたので、今回は無視することにした。

 目を覚ますともう日が暮れていた。5時間は寝たと思うが、イマイチ疲れが取れた感じがしない。気候のせいか、体調のせいか。わかっても仕方ない気もする。サウナがほしいと思う。まあいい。夕食を買って来よう。翌朝は早く出るつもりなので、朝食も一緒に買える所が良い。Google Mapsでパン屋を見つけたのでそこへ行く。
 店までは一駅分の距離があった。少し遠いけれど、夜の地下鉄は怖いので歩いて行った。パン屋は日本と同じスタイルで安心した。適当に選び、5つで20ペソしないくらいの値段だったと思う。味はまあそれなりだった。店内中央に大量に積まれていた一番シンプルで安い*1Bolilloというパンが一番美味しかった。

 食後、苦い記憶がまだ鮮明に残るシャワールームへ入った。前日はどちらがお湯なのかわからず、右を回したり左を回したりしてあたふたしていたが、もうこの日は諦めていたので適当に片方だけを回して水で洗い始めた。まあ洗えないこともない。しかし2、3分経った頃だろうか、なんとお湯が出てきた。ここでようやく勝手がわかった。お湯は左のバルブで、出始めるまでに数分かかる。左がお湯というのはこの後の全ての宿でも同じだったので、冷水をかぶったのも授業料ということで納得した。それどころか、元々冷水で洗う覚悟ができていたせいもあって、この温水はとても有難く感じられた。少しずつだけれど、こちらの生活に慣れていけるような気がしてきた一日だった。

*1:なんと1ペソ!この国で餓死することはなさそうだと思った。