メキシコ4日目

 メキシコでの2度目の朝は6時に目を覚ました。かなり早い時間だが間違ったわけではない。宿のオーナーから7時以降は地下鉄が混むと前日の夜に聞いていたのだ。寝不足でぼんやりしながら室温と平衡した水で喉を潤し、前日に買ったパサパサの菓子パンを食べた。美味しくない。

 今日はメキシコシティを発ち、南西へ170kmほどの距離にある山間の町タスコに行く。タスコは16世紀にスペインの入植者らによって銀鉱が発見されて以来、数百年に渡って銀の採掘と細工によって栄えた銀の町だ。21世紀に入ってからはほとんど採掘はされなくなったものの、現在でも多くの銀製品の生産や販売が町の経済を支えている。また植民地時代に建てられたヨーロッパ風の白壁の建物や教会も非常に有名で、その景観からメキシコのPueblos Mágicos(魔法の町)の一つにも数えられている。タスコの紹介おわり。
 2日間お世話になった宿のオーナーに挨拶を済ませ、まだ肌寒い*1街を歩き出した。タスコ行のバスが出ている南バスターミナルの最寄り駅Tasqueñaまでは地下鉄で20分程度。それなりに距離があるが、これでも運賃はたった5ペソだ。これは何度でも言いたい。嬉しい。ノロノロ支度をしたせいで駅につく頃には7時を回ってしまったが、下りだからか車内はそれほど混んでいなかった。ツルツルした座りづらいシートに腰掛け、ウトウトしながら到着までの時間を過ごす。物売りが妙に癖になるリズムで声を出しながら時々前を通った。
 南バスターミナルに到着してすぐ、知っているバス会社の窓口を見つけたのでそこでチケットを買うことにした。

- A Taxco, uno, ida y vuelta. タスコ行、1枚、往復で。
- Qué hora? 何時の便ですか。
- Este. これ。
- ******? 帰りは何時ですか。
- Umm......Las trece. うーん...(あれ、午前中が無い...仕方ない)13時で。
- ? ......OK. (不思議そうな表情)
- ? (何だろう)

 受け取ったチケットを見て相手の表情の理由に気がついた。帰りの日付が今日になっている。このままだと到着して2時間そこそこで帰ることになってしまう。適当に聞き流してしまった質問があったのだろうと思う。

- Lo siento. Voy a volver mañana. すみません。帰りは明日です。
- Mañana? 明日ですか。
- Sí. Sorry... はい。すみません。
- (モニターを指差す) "15 pesos por favor" 「15ペソお願いします」
- OK. (15ペソ渡す)

 何とか日付の変更ができて、合計で550ペソくらい。一等なのでこんなものだろうと思う。午前中の便へ変更できるかの確認をし損ねたが、もう流石に面倒なので向こうのターミナルで交渉しようと思う。
 出発の10分前になって乗車が始まった。一等バスということもあり、飲み物と軽食が配られた。これは食べるのが楽しみだ*2。乗客は10人もおらずガラガラだった。平日の昼間、それも月曜日に郊外の町へ出掛ける人はそう多くないのだろう。ところで、乗車して一つ気になることが見つかった。下のシートを見て欲しい。

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 何とも思わない人もいるかもしれないが、これは個人的には大問題である。体が飲み込まれるほど不必要に柔らかいクッション素材、腰の位置を固定するように傾斜が付けられた座面、あり得ないくらい低い肘置き、そして一番嫌なのが、前傾過ぎるヘッドレストだ。私は首が前傾する状態が非常に苦手で、例えば寝るときなどは枕を使わずにタオルを敷いて調節するようにしているし、本当なら頭の部分が凹んだ逆枕なるものが欲しいくらいなのだ。しかしこのシートでは座面の傾斜によって否応なしに背もたれを使わされ、首は前に倒され、そのままクッションに埋もれて姿勢を固定されるはずだ。最悪のシートに違いない。床に座った方がマシかもしれないと思ったし、実際そうすれば良かったのかもしれない。
 走り出して20分で首が痛くなってきた。傾きを和らげようと枕を首の後ろにおいてみたりしたが気休めにもならない。それからは全て最初に想像した通りだった。体勢を変えようと体を動かしても無駄で、肘置きに腕をかけようとしても低すぎて使い物にならない。1時間もするととうとう酔ってきた。もう窓の外の景色を見ても一つも楽しくない。どこまでも続く道はいつまでも続くこの時間を思わせたし、時々山の間から現れては消える太陽の光に優しく顔を照らされると、背中をさすられて嘔吐を促されている時のような気分になった。

 メキシコシティを出発して3時間後、タスコのバスターミナルに到着した。とても動けるような状態ではない。下車してすぐ、ロータリーの隅までよろよろ歩き、壁にもたれて地面に座り込んだ。前歯の裏をかすめるのを感じながら、意識が遠のくほど長く、力無く息を吐いた。まだ頭が揺れるような感覚がある。体の表面をなでる風よりも、内側の臓器の動きの方がはっきりと伝わってくる。具合が悪い。しかし面白いことに悪い気はしなかった。まともに睡眠を取らず、早朝からバスに乗り、トイレに篭り、目的地でみっともなく地面に座り込んでいても、誰も何も言ってはこない。どれだけここでこうして過ごそうが、今のこの時間は自分以外の誰のものでもないのだから、何も気にしなくて良い。のんびり病人をやっていようと思った。

 今はそうでもないが、昔は乗り物酔いをすることが多かった。幼稚園や小学校の遠足ではバスに乗るのがいつも嫌だった。前方や窓側の席を選んでみても、どれも無駄だった。親戚の車の中や道路脇の草陰で吐いたこともある。バスもタクシーも新幹線も飛行機も、楽しいと思ったことはほとんど無かった。とにかく早く目的地に着いて欲しい、いつもその一心だった。地面に座り込んでいる間、当時のことを少し思い出していた。当時はただただ苦しかったが、今はその苦しみには終わりがあることも、そのあとのぼんやり体を休める時間が存外悪くないことも知っている。

 心拍が落ち着いてくるのに連れて、柔らかな日差しの暖かさや、風の心地よさが感じられるようになってきた。人の話し声も聞こえる。そろそろ歩けそうだ。

 

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 バスターミナルを出てすぐの道。何も考えずに撮ったような写真ばかりだ。実際何かを考えて写真を撮る余裕はまだ無かった。

 気候は悪くないと思った。日差しはそれほど強くないし、風があるので体感温度も平地よりはいくらか低い。一方で地形は多少厳しい。道はどこも石畳の狭い坂になっていて、景観はいいが長時間歩くと多少疲れる。
 しばらく坂を歩くと広場に着いた。ベンチが見つかったので腰掛け、バスに乗るときにもらったパンを食べてみた。やはりあまり美味しくはないが、美味しくはなくても初めて食べるものなので楽しい。座り心地の悪いシートも、美味しくない食べ物も、水道水から香る不快なにおいも、全部旅の良い思い出になることだろうと思う。

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 坂。コーンが気になる。

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 広場の傍の教会。大きいね。教会とはなんの関係も無いが、旅行中よく野良犬を見かけた。どの犬も大抵大人しく、吠えたり噛みついたりすることはないのでとても可愛い。もちろん吠えたり噛みついたりする犬も可愛いが。この広場の日陰にも犬がおり、しばらく眺めて体を休めるのに役立った。

 ベンチに腰掛けてから30分ほど経った。そろそろお昼にしようと思う。ちょうど坂を少し登ったすぐ近くで喫茶店を見つけたのでそこに入った。

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 坂(2)。中々キツめ。

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 外の景色を望める窓際の良い席を取れた。

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 こちらに来てから初めて写真の撮り甲斐がある料理を食べる気がする。頼んだのは朝食メニューのChilaquilesとカプチーノ。よく見ると使われている食材は前日の昼食とほとんど変わらないのだが、印象は全然違う。見た目が綺麗だとそれだけで嬉しい。少しソースの酸味が強くて食べづらいけれど、ゆっくり食べられるのでその分良いとも思った。 
 のんびり食事をしていると隣のテーブルに一人の男性がやって来て、何となく目が合ったのでお喋りをした。彼も私と同じくメキシコを旅行していて、その序盤で、今日タスコに着いたところらしい。なんと宿も同じだった。違ったのは、彼にとっては国内旅行だということだ。メキシコのどの辺りから来たのかと聞いてみると、持っていた地図を開いて指で示してくれた。

- Chi hua hua...? チ、ワ、ワ...?
- Yes. そう。
- Chihuahua. ...ん?It is a dog breed, isn't it? チワワか。...ん、それって犬種だよね?
- Yes. そうだよ。
- Then, the breed "Chihuahua" is derived from the place name. じゃあ犬種のチワワは地名が由来なんだね。
- Yes. そうだよ。(2)
- へ~!

 初めて知ったことだったので普通に面白かった。その他にもいくつか話をしたのち、また後でと言って別れた。

 

 宿へチェックインを済ませてからは街を散策することにした。先ずは事前に決めていたグアダルーペ教会へ向かう。尤も教会に興味があるわけではなく、展望スポットになっているので行くのだ。上り始めてすぐに初老のおじさんに横からCristo?といきなり一単語で聞かれた。教会のさらに上にあるキリスト像のある展望台のことを言っているのだとわかったので、そっちではなくてグアダルーペに行きたいのだと伝えた。するとGuadalupe! Vamos!(グアダルーペか!行こう!)と言われ、案内をしてもらうことになった。道の途中で彼の友人を紹介してもらったり、二人でCansado, cansado...(疲れた)と連呼しながら上る。楽しい。旅行期間を通して感じたことだが、メキシコでは結構観光客に親切にしてくれる人が多い気がする。

 目的地に着くとおじさんは手を振って降りて行ってしまった。退屈しなかったのでとてもありがたいが、少し申し訳ない気もした。それでも眺めは素晴らしかった。道幅が狭く建物が密集しているせいで人が見えないし(これは素晴らしいこと)、山々の中に町が突然現れる様子も面白い。たった今歩いてきた場所なのに現実でないような感じがした。珍しく町並みを見て感動した。魔法の町と呼ばれる理由を、何となく身体で理解したような気がした。

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 グアダルーペ教会からの眺め。

 

 教会からの帰りに小さな市場を見つけたので、Tシャツを求めて入ってみた。というのは、メキシコの気候が想像よりも暑く、もってきた服のほとんどが着られずに少し困っていたからだ。帰国後も寝間着として使えるような、ダサくて可愛いのがいいと思って探したが見つからない。どれも髑髏のプリントやスポーツブランドのロゴがワンポイントで入っているような、ダサくてダサいものばかりだ。仕方が無いのでジャックダニエルのプリントTシャツを100ペソ強で購入した。TシャツはTシャツの値段がするなと思った。
 19時過ぎに宿に戻り、疲れていたので夕食はコンビニで買ったラップサンドとグミで済ませた。まともにパッケージを見ずに買った2つのグミのうち1つがチリ味(?)だったらしく、ロクでもない味がしたので1粒だけ食べて残りは手をつけなかった。食事を終えた後は、朝のことがあったのでシャワーを浴びて早めに寝ることにした。この宿のシャワーは仕切りもカーテンも無く、トイレと同室にあった。調べると海外では割りとよくあるスタイルらしく、便器がびしょ濡れになるのも仕方の無いことらしい。私が使った際も便器は仕方無くびしょ濡れになったが、悪い気がしたので一応水滴は拭き取っておいた。

 広場は夜遅くまで賑わっていて、楽しそうな人の声や楽器の音が部屋の中にまで届いていた。部屋のベッドに寝転がり、傍観者のままその雰囲気を楽しみながら、この状況は自分の性格そのものだと思った。長い一日を振り返っているうちに外からの音は小さくなっていき、そのうち聴こえなくなった。

*1:メキシコ中央部は乾燥帯で、日較差が非常に大きい

*2:決して美味しいものを期待しているわけではない